教える側の責任

2021.04.16

こんにちは。

子どもたちに勉強を教える、志望校合格に導く、など責任ある仕事をしていく上で忘れてはならないな、と思う話を聞いたので紹介します。植松電機社長・植松努さんのお話です。

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僕は、ロケット教室のときに、

「いまからロケットをつくります!」といいます。

子ども達は、「よっしゃ!」みたいにしています。

次に、「作り方は教えないから、皆さんがんばってください。」といいます。

子ども達が、「え?」ってなります。顔を見合わせている子が多いです。

急に不安そうになります。

そこで、僕がなぜ作り方を教えないのかの説明をします。

前にね、ここで宇宙の学会がありました。

そこには、NASAの研究者が20人と、JAXAの研究者が20人来ました。

(正確には、NASAだけではなく、海外の様々な宇宙機関の人達と、JAXAだけではなく、

様々な国内の宇宙関連の研究をしている大学などの研究者です。人数もおおよそです。)

みんなにロケットを作ってもらいました。もちろん作り方は教えません。

そのとき、日本の研究者は、最初から最後まで、黙々とつくっていました。

「いや~。まじめだなあ。」と思いました。

外国の人はどうかな?と思って見てみたら、

最初から立って歩いています。わいわいがやがやうるさくてしょうがありません。

学校だったら、絶対に怒られるパターンです。

で、結果どうなったのか?

日本人の研究者がつくったロケットの、約半分が空中でばらばらになりました。

外国の研究者がつくったロケットは、全部成功して、お祭り騒ぎで喜んでいます。

なにが違うのか?

日本人は、「わからない」を「はずかしい」と思ったんです。

だから、わからないことがまわりにバレないように、適当にごまかしました。

(実際に恥ずかしかったのかどうかはわかりません。ただ、誰にも聞かずに、

1人で組み立てたのと、成功率がかなり低かったのは事実です。)

でも、外国の人は、わからないから、他の人に聞いたんです。

たったそれだけの違いです。

みんなの中にも、「わからない」を「はずかしい」と思ってる人がいるかも知れません。

でもね、「わからない」は、恥ずかしくもないし、ダメでも無いです。

なぜなら、世界はとっても広いんです。

世界のすべてを知り尽くすことは不可能です。

世界は、はわからないことに満ちあふれているんです。

わからなければ、調べればいいんです。

だから、まずは説明書を見てください。

頑張ってつくりました。イラストも一杯描きました。

それでもわからなかったら、周りを見てください。

だって、おんなじことやってんだもん。

学校ではカンニングしたら怒られるけど、社会では、見て盗め、っていわれるからね。

練習してね。

それでもわからなかったら、サンプルのロケットを見ていいよ。

それでもわからなかったら、周りの人に聞いてもいいよ。

そして、一番大事なことは、見て聞いてわかったことを、「しゃべる」です。

そのときは、「こうしなさい!」ではなくて、「僕はこうやったよ」

「私はこうしてみたよ」です。

みんなが途中途中で見せあいっこしたら、心配が無くなるね。

人生はテストではありません。

無理して一人ぼっちにならないでください。

勇気を出して、聞いてください。

わかったことをしゃべってください。

多くの若い人が、先輩の説明を聞いて、「わかったかい?」と聞かれたら、

わかっていないのに「わかりました」と答えます。

なぜなら

(1)せっかく教えてくれた労力を無にしてしまうようで申し訳ない。

(2)説明してくれたのにわからない自分の評価が下がるのが怖い。

(3)もう一度教えてもらうと、相手の時間を使ってしまうから申し訳ない。

(4)そもそも最初っからわかってませんなんていったら、あきれられてしまう。

(5)なにがわからないのかさえわからないことを知られたら、がっかりされる。

(6)あなたの教え方ではわかりませんなんていったら、傷つけてしまう。

などなど・・・・

若い人達は、しったかぶりをしているのでは無いのです。(そういう人もいるけど)

大抵は、優しすぎるのです。

相手を傷つけたり、迷惑をかけたくないのです。

相手をがっかりさせたり、あきれられたくないのです。

でも、わからないものはわからないのです。

この状態を解決するためには、まずは、相手の状態を知るところからはじめないと

いけません。

たとえば、

「ハンダ使ったことあるかい?」

「はい。ハンダは得意です!」

を、信じちゃいけません。

なぜなら、お互いの言っている経験の内容が同じでは無いからです。

教える側は、基板のハンダのつもりで、

教わる側は、板金のハンダのつもりだったりしたら、

それはもう、技術的にまったくかみ合わないです。

(板金のハンダやってきてる人って、いまは希少種ですけど。

僕は、1.5kwのハンダごてとか、炉で焼くタイプのハンダごて使ったことあるよ。)

まずは、「やってみせ、いってきかせて、させてみて、ほめてやらねば・・・・」です。

ところが、学校での「教えられたことを覚える」のが得意だった人は、

まず、「言って聞かせて」が長いです。ボリュームが大きすぎます。

そして、「させてみて」が高度すぎます。

最後に、「なんでできないのかな?」「さっき教えたよね?」ときます。

もう、やる気などどこかに消えてしまいます。

これでは、相手の実力を知ることなど不可能です。

そして、そのあとも、相手の能力は増えていかないです。

いくら教えても、覚えてくれない。できるようにならない。

という状態は、ほぼ間違いなく、教える側の問題です。

教え方を変えるか、教える人を変えないと、状態は改善されません。

ある教え方を提供する。

もうそれを経験済みの子達にとっては楽勝でいい成績を示す。

その教え方と相性のいい子は出来るようになる。

しかし、その教え方と相性の悪い子は、いつまでも出来ない。

その子達に、「努力しろ」「まじめにやれ」と言ったところで状態は変わらない。

それどころか、

「できない自分がダメなんだ」

「自分のせいで迷惑をかけているんだ」と、

自信をどんどん失っていく。

そういう子は、「わからない」を恥ずかしいと思います。

そして、やったことがないことに挑戦できなくなります。

できることが減っていきます。

でも、特別支援や、高等養護の学校は違いました。

様々な資質の子達の、資質を見極め、その子達に適した学びを提供していました。

その結果、ほぼすべての子が、「学校に入る前より、できることが増えた」になるのです。

そういう子達は、「わからないこと」を質問できます。

やったことがないことをやりたがります。

工業製品を作るように、沢山の子ども達に同じ教育をし、

その教育に相性のいい子はOK。相性の悪い子は「おちこぼれ」。

これは、教育では無く、「選別」にすぎません。

人の能力を増やし、できることを増やすのが、本当の目的だったはず。

教える側が、もうすこし、自分の教え方ってあっているのかな?

もっといい方法は無いのかな?をしっかり考えて、

自己を変革していく努力をしなければ、

社会は、「できない」人ばかりになってしまうでしょう。

最後に、繰り返します。

いくら教えても、覚えてくれない。できるようにならない。

という状態は、ほぼ間違いなく、教える側の問題です。 教え方を変えるか、教える人を変えないと、状態は改善されません。

〈了〉

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心にとどめておかなければならない言葉に溢れてますよね。

①「わからない」は、恥ずかしくもないし、ダメでも無い。

世界は、はわからないことに満ちあふれている。

②一番大事なことは、見て聞いてわかったことを、「しゃべる」こと。

③「はい。ハンダは得意です!」を、信じちゃいけません。

なぜなら、お互いの言っている経験の内容が同じでは無いから。

④まずは、「やってみせ、いってきかせて、させてみて、ほめてやらねば・・」

⑤いくら教えても、覚えてくれない。できるようにならない。という状態は、

ほぼ間違いなく、教える側の問題。

⑥その教え方と相性のいい子は出来るようになる。

しかし、その教え方と相性の悪い子は、いつまでも出来ない。

⑦人の能力を増やし、できることを増やすのが、本当の目的。

講師たちとも共有し、生徒達を指導する指針にしていきたいと思います。

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